クマの寝床

かつて敗者だった人と、これから敗者となる人に捧ぐ

ある大学生の目標とまとまらない話

誰のためでもなく,ただ自分自身のために私はブログを書く.

今回は明日以降の目標について挙げていき,それについて書きながら考えをまとめ,考察しようと思う.明日以降と私は今述べたが,明日,私が一年をささげてきた取り組みをひと段落させることができるのだ.それはつまり,卒論発表である.

 

私は現在大学4回生である.文字にして気づかされるが,私は大学4回なのだな

思い描いていた大学4回はもっと大人でスマートですべてをてきぱきこなし身にまとう余裕から女の子にもモテて2年ぐらい付き合っている彼女との間に結婚の二文字がちらつくような...みたいな実際の自分とのずれに絶望する というような月並みなことはここでは述べないとしよう.というのも,私は上に述べているようなたわごとを身をもって感じたことはないため,あえて皆に合わせてまで嘘はつかないでおこうと思う.

そう,この嘘をつかないでおこうという考えは,私は忘れたくないと考えている.何を改まって,とあなたは思うかもしれないが,ある一つのエピソードに胸を打たれたから、私は胸を張って正直でいようと思えるようになったのだ。そのエピソードについて述べる。作家 町田康がお勧めの本を紹介する,という旨の番組だったのだが,そこで紹介されていたのは,内田百閒の「タンタルス」だった.

 

タンタルス (福武文庫)

タンタルス (福武文庫)

 

 私はこの作者も作品も耳なじみはないが,そのときに町田がついでに内田百閒の述べた言葉を紹介していたのだ.それは阪神大震災の時,内田百閒がインタビューを受けたらしい.

 

レポーター「内田さん,先日阪神大震災が起こったため,兵庫県は未曽有の被害を受けましたが,それについてどう思われますか?」

内田「特に何も.ただ,酒がなくて困った」

 

 一般的にこの回答は屑であるとみなされるだろう.しかしこのエピソードを紹介した町田は,この内田百閒の姿勢を見習いたいといった.あくまで自分の主観に従って生きていきたい,と.これを聴いたときにまさに私は自分も同じ思いをしていたことを思い出したのだ.

2011年の東日本大震災が起きた5年前,大阪に住む私は何の被害も受けず,周りで募金活動に励む友人,鬱になって学校に来なくなる友人,ほかにもすべての楽しい行事を自粛しようとする人々がいる中で何も感じることができなかった.そして,感じることが出来ない自分が恥ずかしく,人々との会話の中では神妙な面持ちを携えていた.自分の欠陥を突き付けられているようで,つらかったのだ.

しかし,内田百閒の言葉,およびそれを支持する町田康の言葉に心を掴まれたのかもしれない.私が何も感じなかった,というのは確かに他人とは異なっていることであり欠陥かもしれないが,その感情は紛れもない事実であり,それを隠すために周りに,そして自分に嘘をつく必要はないのではないか.

現に,著名な二人の作家はこの感情を認めてくれている.このことに私は非常に救われた思いを感じたのだ.
私は,他とは違う考えを持ってしまった人間であるかもしれないが,だからといって他人に迎合し,自分に嘘をついてまで考えを変えなくても良いだろうと思えた次第だ.
少し話がそれすぎた気はするが,私は私自身の感情を大切に生きていこうと,このときより一層感じることができた.

で,なんの話であっただろうか?そうだそうだ,私の明日以降の生き方について考えるのだった.
私は一年間着手していた卒業研究から明日をもって解放されるため,学会のために大学にはまだしばらく行必要があるが,
とりあえずは肩の荷が下りるため,これからやるべきことをここで書いてみるのだった.

私が現在考えていることは主に以下に示す三つである.

  1. 就活,それに伴う経済の勉強
  2. 英会話,TOEIC
  3. 旅行

この三つを改めてみるとなんと意識の高い真面目な人間であるか,自分自身に関してほれぼれするが,
実際は二流大学に通う堕落しきったぼんくら・ポンコツであり,人様に誇れるような美徳は何も持ち得ていない.
むしろ,道楽にふけるにしても私は心から楽しむことが出来なくなってしまったため,
何か手近な目標を設定してそれを達成する,というような単純なループが自分の性にあっているように,いまは強く感じる.こに発見,気づきは以前にもブログに書いた.

 

ktmlnn0930.hatenablog.com

 兎にも角にも私にとっての手軽く目標となりえるもの,それが就活であり,英会話である.ではいまから一つずつ述べていくとしよう.

 まず就活であるが,「何故4回生なのにこの時期に就活するの?もしかしてまだ内定てこと?あ,これって触れちゃダメなとこ?」
などと,読者の頭にははおそらく疑問がかけ巡っているだろうが,どうぞ触れてくれていっこうにかまわないし,爪でひっかいてくれてもかまわない.
というのは,私は大学院に進学するのだ.大学院の修士課程まではいって,その後就職する予定である.
なので,就職活動はちょうど一年後から始まるのがふつうである.しかし,私は今すぐ始めるつもりだ.この理由は,インターンにある.
ちょうど昨日友人から教えられたことなのだが,インターンなるものは就職に直結することがほとんどであるらしい.そのインターンは,今年の六月から選考がはじまり,
私のような無知かつ二流大学在籍の人間では,相当な準備,研究をしないとインターンには受からないらしい.友人曰く,インターンの倍率は就活のそれをも凌ぐらしい.
これは,非常に大変だ.てえへんだ,てえへんだ.てことは,もう準備にかからないといけないのか?はああ~~,まじかよ!!疲労感に満たされる私の背中はもはやブラック企業勤続5年目さながらであるが,友人曰く,ここで逃げると一生後悔する,とのことである.インターンで少し頑張っていると,一般の選考では全く手が届かないような企業でも入社できる可能性があるらしい.
また,この時点では皆にあまり就活の意識が根付いていないらしく,ここで頑張っていると意識がそれほどは高まっていないほかを圧倒できるらしい.
それのみではなく,インターンの選考もまたエントリー→面接など就職選考さながらであることから,一年も事前に生の空気を味わうことが出来るらしく,本番の対策も立てやすいらしい.
以上の理由から,私はこのたびのインターンの選考に真剣に準備をするべく,明日からそれを頑張る予定である.また,就活を始めるにあたって,私は企業について何も知らないため,テレビ番組等をくまなくチェックし,
また,私は理系学生であり,理系学生の就職先の花形はメーカーの研究・開発職らしい.私はあまり分からないが.
メーカーメーカーと分かった口ぶりでここに書いている(口ぶりで書いている?)が,メーカーとはmakerということか?
よくわからないが,メーカーは外国に輸出することによって利益を得ているらしく,そのため為替レートが非常に売り上げに影響するらしい.
友人曰く,外国為替を勉強すると,経済の流れ,各国の思惑,企業の未来等が読めるようになるらしいので,私も外国為替,経済の勉強をしようと考えている.

 長くなってきた気がするが,まだ読んでくれている人はいるだろうか?まあ私自身のために書くと先程宣言したし,この姿勢は崩さないようにしよう.理想を言えば,この姿勢を崩すことなくたくさんの人にかまってくれるような人間になりたいですな.

  とにもかくにも,次は英会話である.英会話は私の念願であったが,大手の英会話教室ではあまりに値段が高すぎる.毎月二時間で2万円ぐらいだろうか.
これはあまりにも高い.それに,日本語を全く話せない外人が,自国語を教えるだけで高額な給料を手にするだなんて,なかなか腹が立つものである.
しかし,最近革命的な低価格で,従来よりも長時間の英会話ができるコースがある.それが,オンライン英会話である.私調べでは,毎日25分で月々4000円しない程度である.これは安い.
また,DMM英会話を一年半ほど続けた人のブログを先程読んだのだが,そのブログを以下に示す.

 

オンライン英会話を10000分やった私の身に起きたこと - The Coffee Times


これによると,一年半続けたことによって英語の映画も字幕なしで見れるようになり,外人の友人も沢山でき,TOEICのスコアも655から915にまで上がったらしい.
私のTOEICのスコアも同じく655であることもまた,運命のように聞こえる.私は今までTOEICの点数を上げたかったが,TOEIC専門の問題集を解いてスコアは上がるがまったく実用性が無い,というのはまったくごめんだと思っていたため,これほど私が望んでいたコンテンツに巡り合えたことをうれしく思っている.また,これによって就活時期でもTOEICの高得点は活用できるため,つながっているように思う.

 最後に旅行であるが,これははっきり言って乗り気ではない.以前はインドなどの日本と大きく異なる国々に行き,人生観を変えることを夢見ていたのであるが,研究生活やその他の友人,恋人,自分自身との関係に疲れてしまい,海外への想いはいつのまにかどこかへ消えてしまった.
しかし,このチャンスを逃すと,私が海外へ行くことが出来る機会はなくなってしまうのだ.自分の心に嘘がないように生きたいと先述した私であるが,嘘をついてでも一度行っておかないと後で後悔するだろうと思う.
そこらへんの折り合いは生きていくうえで非常に難しいと思う.「いまを生きる」ことがどれほど正しいのか?「後先のためにいまを捨てる」ことがどこまで正しいのか?難しいところである.

 

いまを生きる [DVD]

いまを生きる [DVD]

 

 
話は変わりますが,この「いまを生きる(dead poet society:死せる詩人の会)」という映画は私は本当に好きです.

これについては以前書いたので,良かったら以下の記事もどうぞ.

 

ktmlnn0930.hatenablog.com

 

これを見た時は大学に入ってからでしたが,厳しかった高校生活を思い起こしては当時の教師たちへの怒りが止まりませんでした.
あとから振り返ってよい先生だった,良い学校生活だったという人は往々にしていますが,この映画を見てから私はやはり,彼らに対しての怒りがこみ上げてきます.
しかし,私は彼らへ怒りに燃えている瞬間は案外楽しかったりもします.私は日常生活からあまり人に対して怒ったりすることはないのですが,たまに怒りに燃えているというときは,以外にも楽しく感じるのです。人間の感情には喜怒哀楽の4つが一般的に挙げられていますが,
これらは意外と4つすべて堪能するほど楽しく幸せなのかもしれませんね.生きる,ということにあまり希望を抱けない私ではありますが,喜怒哀楽,三大欲求などの先人が造った言葉はやはり本質を表しており,
これらはよりよく生きる上で必要な要素なのかもしれません.

話はそれにそれましたが,まとまった話というのは一概に面白くないように私は感じており,それよりも瞬間瞬間の感情・考えに文章を書いている最中であっても真摯に向き合うということは,事実に正直に向き合っているということになるのではないでしょうか.

今日は長々と書きましたが,読んでくれた人には心より感謝を申し上げます.長文・駄文をご堪能いただけたでしょうか?

適当に生命考えたろ

何者も等しく人間だ。人それぞれ異なる考え方を持っていたとしても、結局は他の生物と同じであり、子孫繁栄を本能としてプログラムされた個体である。ただ人間は何か外因があったのか、他の生物と比較すると凄まじい進化を遂げ、多様な文化を生んだ。生きる意味は無限大にあるように思われる人間社会であるがしかし、それらを極める道に生きようとする者はきまって孤独であり、生の意味をさらに模索する。
やはり子孫繁栄のみが目的なのだろうか?それならあまりにこの人生は時間が余り過ぎはしないか?医療の発展が暇な時間をもたらしたのだろうか?理系に進んだ私は私なりに生命を解き明かしたいと考えている。
しかし進化論を軽く考えてみると、何故生命が地球上にこうも存在し続けようと躍起なのかはわかる。それはすなわち、存在し続けたいと願った種だけが残り、願わなかった種はそこで途切れたのだろう。なるほど、つまりは私たちが子孫を残そうとする理由は、そう願う遺伝子を受け継いだからである。それだけであるとするのなら、製作者の意図意図ではなく、むしろ製作者なんてやはりいないのかもしれない。
願いが自由に存在し、各々が異なるベクトルに進み、生き続けたいと望んだ種だけが何十億年、何百億年に渡る生命の営みを続けており、その先端にいまの私たちがいるのかもしれない。
私たちは生き続けたいと願った人々の子孫であるが、生き続けたいと望まない他のさまざまな願いを持った人々が存在する世界はどのようなものなのだろうか?今のように人々の頭にSEXがそれほどない場合の世界は、どうなりうるのだろうか?存在し続けることを目的にした場合、生物は環境へ適応するため変化ができなかったため、別の個体を用意して適応するための進化をする必要があった。とすると、存続を望まない場合は進化は必要ないため別の個体も必要ないため、交配もいらず、雄雌もいらない。なるほどではそこになんの面白みがあるのか?



理屈と孤立

人の過ちを指摘したがる人がいるけど、僕はできない。
どの過ちも、その環境に限定されただと思うし、別の環境・別の解釈によってはその逆にもなり得る。
なんらかのコミュニティーに属す人間なら、その中でのルールは守るべきかもしれないが、その環境下でのそのルールの重要性を理解しないと納得できない。それが理解できるものであれば僕は従うだろう。しかし多くのルールは、「伝統」と名がついてその行為の意味まで理解が及んでおらずその心は置き去りになっていたり、また、その環境を取り締まる人間の好みによっていたりと、到底理解できるものではない。
  だからわたしは、毎日どの環境でもルールを守ってはいるが、自分では全く納得できていない。そして、納得できていないことを後輩に教えるだなんて、到底できないのだ。
しかし当たり前ではあるが、組織として考えるとそのような先輩は貴重で必要な存在である。組織内の関係性を円滑にし、その共通の目標を達成するためには後輩には絶対にそのルールを叩き込まなければならないからだ。
わたしがこれからどのようにして後輩と接するのかはわからないが、わたしはやはりルールを教え込む人間にはなれないだろう。そう考えると、わたしという人間には到底「組織」というものが向いておらなさそうだ。つまり、個人としてこれからさき生きていくことになるだろう。想像しただけで孤独な人生であるが、わたしはそのようにしか生きていけない気がする。

猫顏の女の子と懇意になるため猫の生態を調べてみた

先日合コンをした。
合コンの話はここでは割愛させて頂くが、そこで出会った女の子がとても可愛く、なおかつその娘の雰囲気が非常に僕と近いような気がしたため、僕は彼女に惹かれた。
一度きりのご縁に終わらせたくなかった僕は、今度は二人で会えるように連絡を続けようとしたのだが、ここである問題が生じた。
彼女が猫のような性格なのだ。

なんとか次の約束にこぎつけたい僕は、対女の子特有のコミュニケーションを意識して相手の好感度をジリジリと上げていこうと目論んでいたのだが、僕が送ったメッセージに対する肝心の返信がなかなか来ない。
時間にして約6時間後にやっと返信が来たと思うと、その後再び僕が送ったメッセージに対する返信はそのまた10時間後であった。

さすがに脈が無さ過ぎるだろうと思い、諦め気味に彼女との共通の知人に相談してみると、その娘が根っからの気まぐれでメッセージの返信も本当に遅いことを教えられた。

その言葉を聴いた時に、脈がまだ無いわけではなさそうだと気分を取り戻したとともに、彼女が「気まぐれ」であることに自分があまり驚いていないことに気付いた。というよりはむしろ、僕はそれを会った時から見抜いていたような気がしたのだ。
つまり、彼女の顔はとても猫に似ていたのだ。

この発見の後もメッセージのやり取りは続けたが、いかんせん返事が遅く、会話は盛り上がろうにも長すぎる時間の隔たりによってなかなか弾まず、彼女の意識は全くこちらに向いていないように思われたが、思い切って二人での約束を提案したところ、あっさりとオッケーをもらった。

二人での約束というものは通常ハードルが高いもので、今までそれが決まったとなればひとまず喜び、次に自分を褒め讃えていた僕であるが、今回はあまりに実感がなかったため喜びさえも起こらなかった。これが「猫」かと、猫好きではあるが猫を飼ったことのない僕はこれからの成り行きを全く想像できずにいた。

ともあれ約束は無事取り付けられた。
二人で会うところまでこじつけることが出来たので、次回は経験上そう低くない確率で急接近できるだろうと思うのだが、相手が「猫」ではそれもあまり自信が無い。
どうしたものかとこの一週間は常に頭の片隅でこれについて考えていたのだが、先日何もすることがなく暇でふと立ち寄った書店で小説を物色していると、小説コーナーの向かい側に新書コーナーがあった。
僕は新書はあまり読まないのだけど、気掛かりなタイトルの新書を目の隅に捉えた。
ここで大変申し訳ないのだがその新書のタイトルは忘れてしまったのだが、だいたいは「猫の習性」というようなものだったと思う。

近々相見える「猫」、気まぐれで理解不能であるあの「猫」を少しでも知りたいと、僕は恐る恐る本を手に取りページをめくった。

その本はまさに僕にぴったりの内容で、目次の中から僕は「モテるオス猫とは」の文字を見つけ出し、すぐさまそこを開いた。

そこに書かれるには、まず、モテるオス猫はとにかく体格が大きいらしい。
なるほど、メス猫は体格の大きなパートナーを求めるらしい。そこで僕はというと身長は172
cmと決して大きくはない体格で、敢えて自分を援護するならば中高の部活動で鍛えた名残りから肩幅と胸板が普通より逞ましいぐらいだろうか。
いや、負け惜しみはよそう。僕は猫の世界ではモテることは出来なさそうだ。猫の世界での「体格」とは即ち生きていく「強さ」であり、人間にもその「体格」が当てはまるとは限らないだろうと思いつつも、僕は次ページを繰った。
そこに書かれているには、体格の大きくないオス猫にもチャンスがあるらしく、それはメス猫がいつも相手をしているオス猫が別のメス猫に目移りしている時、らしい。
なるほど、これは人間にも当てはまりそうだ。
つまり、(猫世界における)体格の劣る男は、巨漢のおこぼれを狙うほかないのだ。
しかしよくよく考えてみると人間界はまだ楽なものである。
人間界のような多様な価値観の渦巻く中では、女性の求める要素もてんでバラバラであり、男はその中で自分の秀でたものを磨けば良い。つまり、努力は強いられるものの大多数に希望のある世界である。
しかし、猫の世界ではそして貧弱な体を持って生まれたものは、弱者としてたまに強者のおこぼれにあずかる他ないのだ。

以上はおそらくかなり極論な文章になってしまっただろう。新書を数ページをチラ見しただけで猫の世界を全て知ったように語ると世界中の猫からバッシングが飛んできそうなのでこれ以上はよすことにしようと思うが、それでも思うことは、人類の発展によって努力が大きな意味を成しうる社会と変化したということだ。
知性をこれまで肯定出来ずにいた僕であるが、これから社会が多様化するとともに混沌となって醜いものも増えて行ったとしても、これは人類の美徳であるといえるだろうと思う。

人類万歳!!




TOEIC当日に僕が言いたいこと

  試験とはレントゲンのようなものですと、私は高校の教師によく言われた。確かにそうかもしれない。
レントゲンを受けることで、自分の体の悪いところを明らかにする。
試験を受けることで、自分の勉強が間違っていないのか、確認をする。 

やはり試験はレントゲンのようである。
ではこれを諸事情により拡大解釈してみたい。

  まず、レントゲンとはどういう時に撮るものだろうか?
それは、事故にあった時や身体の何処かに痛みがある時に、骨の異常を確認する為である。
つまり、レントゲンを受けるには、その必要性が前提としてあるべきなのである。

ここで先の話に戻ると 「試験はレントゲン」であるなら、
試験を受ける為にもその前提が無ければならぬ。
しかし、試験を受ける必要性とは何だろうか?

受験の時には勉強が順調に捗っているかの確認の為に試験は確かに必要だ。
大学では単位制なので、学生がきちんと理解しているかの確認の為に試験は確かに必要だ。
(ここでは大学の試験が理解度の確認に役立っているかどうかの考察は敢えてしない。)
しかし、必要のない試験というのはよく存在するものである。
そういえば私が最近申し込んだ記憶のあるTOEICの試験なども、それに当たる理由は存在しない。
ではなぜTOEICを私が申し込んだのかというと、その目的は試験そのものではなく、申し込むことで自分のやる気を促すことである。
(ここで、その目的が果たせたのかどうかは問題ではない。)
また、私が試験を受ける必要を感じるような不安や心配事も存在しない。

これで私が試験を受ける必要性は何一つ無いようなので、私は本日のTOEICを辞退する考えをここで表明しておきたい。

この結論を書きたいが為に長々と書く羽目になってしまったが、もし上記の中で論理破綻などを見つけたなら、是非指摘して頂きたいです。しかし、それによって本日のTOEICを受けることになるとは考え難いです。
では、グッドバイ

悲しみ

今日はバイトがあった。
割と上手く授業は進めれたと思う。
帰りに電車を乗り継いで家へ向かおうとした時に、自転車が潰れているのか、前輪が一周する度にガガガと音を立てる。
その音が耳に入るのが苦痛過ぎたため、僕は自転車を降り、三キロある家までの道を歩くことに決めた。歩いた方がタイヤの回転数が減り、少し苦痛が収まる気がしたからだ。
しかし、このノイズは消えるわけでもなく、嫌なリズムで僕の苛々を増幅させる。
家までの道の半分が過ぎたあたりで、我慢の限界になった。
家とは違う方向へ自転車を押し、当てもなく進んだ。
どこに続くか分からない道を方角も気にせず進んでいくと、神社があった。そこで少し休んで休憩して、無音の環境を満喫したいと思った。

神社は公園と隣接しており、自転車を停めて鳥居を潜ると、私はその境界付近に腰を下ろした。
静かではあるが水の流れる音が微かに聴こえる。いつもは水の音に癒しを求めて河川敷までわざわざ行く私であるが、今日はどういうわけかその水音が邪魔だ。
私は小さな公園の木々の間を二周したのち、満足できずに神社の本殿へ歩き、外に面している木目の廊下に腰をかけた。

何もかも嫌になった。何故私はこれ程辛いのか、何が原因か分からず、全てが原因であるような気もして、闇の中にそびえ立つ木々を見ていた。
恐らくエジソンの功績によって光る灯籠とそれに照らされる樹の肌を見て、その景色の時代を感じ、私は目を閉じた。

目を閉じたら平安時代に遡っているとどれ程嬉しいか、妄想していた。
水の流れる音と、原付のエンジン音が遠くに鳴っている。
僕はしばらく待った。せめてこの時代の音がなくなってから目を開けようと思ったのだ。
目を閉じれば遠くを通る車のタイヤの擦る音や、自転車の軋む音が後を絶たない。砂利道を歩く人の足音が近づいては消えていった。
そして水の音だけになった一瞬を見つけ目を開けると、まず目に入ったのは、揺れることなく平べったく光る灯籠だった。
私はそれを確認したのちに砂利道の不愉快な音を聞きながら入り口まで行き、自転車を神社の石壁まで押して行き、思い切りそれを投げ付けた。
二回のガシャンという音に満足すると、私は自転車をそのままに家へ帰った。

父、魂の演奏

  父が大病を患っていることは前述したので飛ばすとして、今日はその父がギターを弾くバンドのライブに親戚を集めた。親戚がライブハウスに集うというのはなかなか珍しい体験であったが、息子である私はよく連れられて来ており、再びその空間へ行くことを考えると、限りなく面倒臭かった。というのも、そのライブハウスに集まる人達は父の世代の人間ばかりで、おじさんおばさんが歌い踊り騒いでいる中、同世代の若者がいない私と弟がその輪に入れるような度胸もコミュ力も無く、ただ傍観者として隅に座っているだけなのだ。
  音楽もその世代に盛り上がった洋楽が中心で、僕の世代では知られていないものが殆どであるが、幸い僕は幼い頃からそれらの音楽が家の中でも出掛ける車の中でも流れている環境で育ったため、それらは今なお僕の好きな音楽であり続けている。
しいて難点を挙げるなら、僕がそれらを好きすぎるあまりに、演奏の評価が厳しくなってしまうことだろうか?
  そんなこんなで、ライブが始まった。
前座のバンドがこれまた古い「スタッフ」のコピーバンドをやっており、インストバンドながら圧巻のパフォーマンスを見せ客達を魅了した直後であったので、雰囲気は出来上がっていたが、私は非常に焦っていた。なぜなら私の知る父達の演奏は、明らかに技術面において劣っていたのだ。にも関わらず観客はトリである父達バンドに更なる期待を求め、その中には父が自ら集めた親族も居るのだ。
  父の焦燥は、そんな僕のものとは比べものにもならなかっただろう。技術の差は本人達が一番自覚しているはずだ。しかし残酷なことに時間は過ぎ、父達の番が来た。

  父達のバンドは確かに技術面では劣っており、一瞬観客の熱意は覚めるかと思われたが、前バンドにはなかったヴォーカルがバンドをリードしていくことで、観客のボルテージは保たれていた。
  そのようにして危なげにも致命的なミスはせず観客はどんどん盛り上がっていくなかで、父達の演奏がいつにも増して迫力を帯びていることに気付いた。そして父を見て察した。
死の迫っている父は、演奏することで私たちに語りかけていたのだ。
普段あまり自分の死について語ろうとしない父ではあるが、家族、親族への決別の思いも込めて演奏に没頭しているのかもしれない。
そして、周りのメンバーは、恐らくそんな思いを汲み取って、今までにはない独特の緊張感と決意を持って今回の演奏に臨んでいたのだ。
  それらを見て僕は父に、そしてその周りのバンドメンバーに、静かな誇りを感じた。

恐らく父は、残された人生を思い、誰もがそうであるように、そこからなんとか意味を見出そうとしたはずだ。
そして、一度はプロミュージシャンを目指し断念していた父は、やはり見出せたのは音楽だけだったのだろう。
残された日々を音楽に注ぐ決意を胸にし、自分の人生に意味付けしようとしているのだ。
 
  しかし父はあくまでアマチュアであり、ギターの演奏も上手い方ではあるものの、実力者はその上にごまんといるのだろう。
父が持つ音楽への誇りは、傍から見ればかなりくだらないように思えるかもしれない。
実際に私もそう思っていた。
しかし今日私はそんな父の演奏を見て、静かに燃える人間のプライドを見た。
一人の人間が生きる重みを思い知ったのだ。
  そんなバンドの迫真の演奏によって観客の熱量もどんどん高まっていき、それは普段は隅で座っている私たち兄弟までもが身を乗り出す程であった。
そしてスタジオのボルテージが最高潮に達したところで、バンドはアンコールを終えた。 
 拍手と喝采の中、はにかみを顔に浮かべて去っていく父を見て、私は初めて父の背中を羨んだ。