クマの寝床

かつて敗者だった人と、これから敗者となる人に捧ぐ

ホモに間違われていろいろ考えさせられてます。

3ヶ月ほど前のことですが、僕は友人(男)と二人で九州へ旅行していました。

その日は晩に船に乗り、そこで一夜を過ごす予定だったのですが、船が出るにはまだ4時間ほど残っており、かといって楽しく時間を潰すような金も無かったため、休憩スペースのある銭湯にでもいってのんびり時間を過ごそう、ということになりました。

 

ちなみに僕はその銭湯の休憩スペースがたまらなく好きで、風呂は嫌いであるにもかかわらず月に一回は風呂屋へ行き、休憩スペースにて日々の疲れを癒します。そうです、僕が特殊なのか皆がそうなのかは知りませんが、僕にとって銭湯の休憩スペースこそがオアシスであり、風呂はそれをより愉しませるためのスパイスに過ぎないのです。僕が風呂嫌いであるように風呂は人を選びますが、休憩スペースは全ての人を包み込む寛容さを持ち合わせています。

 

   話が少し逸れたが、そのようなことから僕は心を躍らせてそのような銭湯を探していました。幸いそこは全国でも有数の温泉街であり、あちこちに銭湯が並んでいたのですが、さらに歩みを進めて行くと、古い店構えの銭湯を見つけ、そこには次のような張り紙がありました。

 

「休憩できます」

 

  この時僕の心がいかに跳ね上がったかをわざわざ読者の皆様に説明する必要はないと思いますが、当時の僕は自分の意中の銭湯がこうにも早くに見つかることに最早運命を感じており、家からはかなり遠いがこれからは年に一回はここを訪れようと心に決め暖簾をくぐった程でした。

 

  古い店構えだけあって、お世辞にも綺麗とは言えない内装でしたが、その時は恋は盲目とでも言うべきか、その汚さに「古き良き日本の銭湯だな」などと、まあいま思えば見当違いな感想を抱いていました。

 

   すると、僕らが店に入った時に、奥の方からやって来ていた店主が僕ら二人をジロリと見ていることに気付きました。

 

   僕にとってはそのおばさんもまた、運命における登場人物であったので、親近感を持って表情を向け、念のために確認をしておこうと尋ねてみました。

 

「ここって風呂に入った後に休憩できますか?」

 

もちろん僕にとってはこの質問は答えを確信した上のものであり、店主を喜ばせる意味を含ませたものでした。しかし、返ってきた言葉は想像とは大きく異なりました。

 

「今日はもう一杯やからあんたらは無理や、早よ帰り!」

 




理解できなかった。


店主の発言を脳が処理できず、理解するまでに10秒ほどかかりました。そして理解した次にもやはり意味がわからなかった。その銭湯は全く人気がなく、満員である筈がないと思いましたし、仮に満員であってもそんな言い草は無いではないか、運命が僕を拒否したのか、、と失望に打ちひしがれていました。

 

   諦めて店を出て、別を探そうと友人に言葉を掛けると、友人が一言発しました。

 

「絶対おれらゲイのカップルに思われたな」

 



!!!!

そして僕は全てを悟った。森羅万象の理を。

 

 



そうなんです、店に書いていた「休憩」とはつまり別の意味の方なんですね。確かに僕の顔は濃い部類で中高と部活に励んだお陰で体格も少々大きめですし、友人は僕が言うのもなんですがなかなか可愛らしい顔をしています。笑

 

 

まあくわしくはわかりませんが、後に冷静になった時に当時の一件を思い返すと、そこはなかなか汚くて人気もなく、実際に客は全くいなかったでしょう。

にもかかわらず、僕らが拒まれたのは、そこに同性愛者に対する嫌悪があるのではないかと考えられます。

性に対して現代は寛容であるとはよく言われますし、おそらく都市部などのラブホテルでは同性愛者を拒むなんてことはめったには無いとは思いますが、都市部から離れたところにある、伝統的な日本を象徴した温泉街ではこれが現状なのかもしれません。


近年グローバル化が進む中で、日本伝統の消滅が頻繁に囁かれ、近代化に反対する運動を様々なメディアで目にますが、文明の発展によりマイノリティーに寛容な社会を作り上げることができ、日本の伝統文化が悪い側面も沢山あるということをこの一件でまさに思い知らされました。


以上を踏まえた上で、理想の社会とは一体どのようなものなのか、何を残し、何を捨て、何を作り出すべきなのかを考えていくことが、この問題に偶然にも向き合うこととなった僕の使命なのでは無いかと考えます。皆さんも是非!