クマの寝床

かつて敗者だった人と、これから敗者となる人に捧ぐ

Dead Poets Society という名映画とその力

  記念する僕の誕生日、SNSを通して以外には誰も祝ってくれる人もおらず、
僕は昼間から家でひとり映画を観ていた。

「可哀想!」と多くの人は僕に同情してくれるのかもしれないが、生憎僕にはそんな安っぽい感情に取り合っている暇はない。

なぜなら実に素晴らしい映画を鑑賞し、言い知れぬ感動に心を奪われていたからだ。
僕の誕生日は非常に充実したものであったと断言したい。

そして、その誕生日を飾る記念すべき映画こそ、
「Dead Poets Society(今を生きる)」だ。

  まず僕はこの映画を事前に知っていたわけではないが、この映画が故ロビン・ウィリアムス主演の作品コーナーにあって、その中で一番僕が求めていそうな作品だったので借りた訳だ。

僕はロビンウィリアムスが好きなのだけど、それは共感が先行するだろうか。

彼の表情は、まさに鬱病が深刻であることを表していて、以前の僕と重なりとても興味深いのだ。



  何はともあれ、早速映画鑑賞が始まる。

この映画を観て心を動かされる人間はまずいないだろうと思うような内容であったが、僕の心を真に刺激したのは鑑賞中ではなかった。

それは、映画を見終え夕飯をすませ、日課となりつつある夜道の散歩をしている時であった。

僕は映画の内容を頭で追っていたため、その散歩は少し涙を滲ませながらのものとなってしまったのだが、
(詳しい内容については後に観る人もいるだろうからここでは記述しない)
やはり社会の不条理を突きつけられるのだ。

つまり現代の社会構造において、
個人が求められるのは労働力として、つまりは個人から精神を排除した、肉体としてなのだ。

そしてこれは教育現場においても同様であり、教育の最先端であるとされる有名進学校においても社会に応じた人材育成のため、個人の精神を蔑ろにされる。
(そのくせに夢を持てなどと仰せになる笑)

教育とは果たして、社会適応の為なのであろうか?

そして偉大な精神を持ちそれを尊重したいと願う純粋な人間こそが、この社会に適応出来ずに苦しむ。

この映画ではそのようなことを如実に描かれた傑作であるように僕は思う。

この映画を観たことで僕も少し自分を知ることが出来た。


というのは、自分がなぜこれ程就職に負のイメージを持っているのか、自分にも理解できなかったのだが、やっとわかったのだ。

それはつまり、多くの仕事において労働者は精神を排除し、肉体のみを提供することを必要とされているからだ。
(ここで僕の唱える「肉体」には脳も含んでいる)

そして僕は自分の精神とは、インテリジェンスとは無関係の「欲望」であると考えている。インテリジェンスとは肉体である脳の働きの結果生まれたものであり、よって精神には関与しないと僕は考えている。

つまり、精神を排除しない職業とは、自分の欲望を叶えることができる仕事であるということだ。

である為、多くの仕事において精神の排除を要求されるとは言っても、その仕事を終えた達成感等の喜びを感じることで、人々は精神を充実させているのだ。


しかし僕は、、それだけでは、足りない。

これまでの僕の最難関はここであったのだ。。
仕事の後について来る付加的な精神的満足ではなく、その仕事そのものに対してま僕は欲しているのだ。精神的満足を。

これを得るためにこれからする努力は並大抵のことでは無いかもしれない。

しかし、以前のように道に迷うことは無い。
僕はただ、欲望に従えば良いのだ。
それこそが精神を充実させることが出来、その充実はひいては人生の喜びに繋がるであろう。

ここまでの考えを鑑賞者に与える
「今を生きる」に感謝を示すとともに、
このブログを終了したいと思う。
見てくれて、ありがとう。