気狂いピエロ を見て、自分の屑を再確認
今日僕は映画の「気狂いピエロ」を観た。
最近映画の感想ブログが多い気もするが、
彼女もおらず、友人たちともそれほど頻繁には会わないので、
一人の時間が必然的に長くなってしまうのだ。
そして一人で過ごす時間の過ごすとなると、
現在は主にフランス語の勉強か、読書か、映画鑑賞か、ネットサーフィン、をしている。
確かに孤独ではあるが、まあまあ充実した日々を送れているようには思っている。
(このほかに面白い休日の過ごし方を知っている人がいればぜひ教えて頂きたく候)
とまあどうでもいい話はおいておいて、
気狂いピエロの感想を書きたい。
まずこの映画はネット上のレビューを見て興味を持ったのだが、
そのレビューでまず目についたのが、「オシャレ」というコメントの多さであったが、
よくよくレビューを見ていると、「オシャレ」と同じぐらいに「意味が分からない」、「奇妙だ」という言葉が目についた。
要するに「オシャレで意味が分からない映画」ということになるんだけど、僕からするそれはフランス映画の象徴であるかのように思い、特別珍しい気もしなかったのだが、
なんとなく僕の心がオシャレさを求めており(笑)、
フランス語を勉強している僕には「フランス」を知る良い機会だと思い見ることを決めた次第である。
監督がフランスの巨匠だったようだし。
というわけで今日それを観て、その感想を書きたいのだが、
僕が映画の感想を書くということは、すなわち僕にとって新たな発見があったということなのだ。
読者は存分に期待して欲しい。
まず、今回はもうストーリーがそれ程重要ではないように思うので、ネタバレを気にせずここに書いてしまおうと思うのだが、
映画を見始めて直後に衝撃を受けるのが、
この映画の主人公である女と男が、とにかく倫理観に欠如していることだ。
物は盗み、人は殴り、家族は捨て、とにかくハチャメチャなのだ。
しかし観ているうちに僕はハッとし、それらの行為が最近の自分の考えの具象化であることに気が付いた。
僕は最近ただただ現実が大変つまらなく、仕事で就くとその現実がさらに悪化してしまうのは疑いようもなく、何とかして働きたくないと思っている、まさに屑の代表なのであるが、
そんな人間が幸せと向き合うとなると、この世のすべての制約が邪魔になり、
それらから逃れた真の自由を求めてしまうのだ。
幸い(?)、僕は宗教を信仰してはいないのだが、
宗教も、法律も、倫理も、道徳も、常識も、僕らのような屑が増えないためのものであるようにしか思えないのだ。
(勿論、屑が増えると世界は崩壊するだろうしね!)
また、以上の制約のお陰で世界は今のところは残っているが、
みんな、どのような思いでこれらに従い生きているのだろう?
僕は思う。
その心に中身はないであろうと。
宗教も法律も、、etcは、それらを破った時の不利益により人間は守っているだけ
に過ぎないのだ。
宗教・・・神に怒られる
法律・・・罰せられる
倫理・・・周りの人間に嫌われる
道徳・・・ 同上
常識・・・ 同上
まあこんなとこだろうか。
これらを恐れて人々はそれらの枠内を行動し、枠から外れた人間を批判、攻撃する。
しかし、自由を望んでいる僕はこう考えたい。
「それらの罰を承知の上なら制約からはのがれられてもよいのではないのか?」と。
「そして真の自由を手に入れたい。」
屑故に、僕はそう思ってしまう。
また、一人の屑として言い訳させてもらうが、
真の道徳や倫理や法律からは人間は大きく逸脱してしまっているのだ。
娯楽や利便性などの為だけに
動物や植物を大量虐殺しているではないか。
この世の全ての制約は、人間が生き残る為に人間が作ったものなのだ。
そして科学技術を使い、過去莫大な恩恵をくれた(もちろん今も)自然をも、支配しようとしている。
そんなものをなぜ護らにゃならんのだ?
どうせ数々の異種の犠牲の上に成り立つ虚構で有るのなら、
僕はそんなものに縛られる必要は全くないと思のだ!!
そして大脱線をした話は再び元のレールへ奇跡的帰還を成し遂げこの映画についてであるが、
「気狂いピエロ」の主演の二人はその考えを体現しているように思う。
特にこの映画においては女のほうにこれが言えると思う。
そして、神に見放されても、周囲にどれだけ白い目で見られようと、警察に追いかけ回されようと愛する人間さえいればそんなものはどうでも良くなるのだ。
まあしかし、人間の感情というのは実に不確かであり、
故に二人の掴んだ「真の自由」は終わりを迎えることとなった。
感想は以上でしょうか。
真面目にこのブログを読んでくれたなら、映画よりも僕の屑さに目が行ってしまうのではないかと思い、映画評論家を目指す人間として失格であるが(嘘)、
とりあえずまあこのくらいにして失敬させていただきましょう。
では