クマの寝床

かつて敗者だった人と、これから敗者となる人に捧ぐ

父、魂の演奏

  父が大病を患っていることは前述したので飛ばすとして、今日はその父がギターを弾くバンドのライブに親戚を集めた。親戚がライブハウスに集うというのはなかなか珍しい体験であったが、息子である私はよく連れられて来ており、再びその空間へ行くことを考えると、限りなく面倒臭かった。というのも、そのライブハウスに集まる人達は父の世代の人間ばかりで、おじさんおばさんが歌い踊り騒いでいる中、同世代の若者がいない私と弟がその輪に入れるような度胸もコミュ力も無く、ただ傍観者として隅に座っているだけなのだ。
  音楽もその世代に盛り上がった洋楽が中心で、僕の世代では知られていないものが殆どであるが、幸い僕は幼い頃からそれらの音楽が家の中でも出掛ける車の中でも流れている環境で育ったため、それらは今なお僕の好きな音楽であり続けている。
しいて難点を挙げるなら、僕がそれらを好きすぎるあまりに、演奏の評価が厳しくなってしまうことだろうか?
  そんなこんなで、ライブが始まった。
前座のバンドがこれまた古い「スタッフ」のコピーバンドをやっており、インストバンドながら圧巻のパフォーマンスを見せ客達を魅了した直後であったので、雰囲気は出来上がっていたが、私は非常に焦っていた。なぜなら私の知る父達の演奏は、明らかに技術面において劣っていたのだ。にも関わらず観客はトリである父達バンドに更なる期待を求め、その中には父が自ら集めた親族も居るのだ。
  父の焦燥は、そんな僕のものとは比べものにもならなかっただろう。技術の差は本人達が一番自覚しているはずだ。しかし残酷なことに時間は過ぎ、父達の番が来た。

  父達のバンドは確かに技術面では劣っており、一瞬観客の熱意は覚めるかと思われたが、前バンドにはなかったヴォーカルがバンドをリードしていくことで、観客のボルテージは保たれていた。
  そのようにして危なげにも致命的なミスはせず観客はどんどん盛り上がっていくなかで、父達の演奏がいつにも増して迫力を帯びていることに気付いた。そして父を見て察した。
死の迫っている父は、演奏することで私たちに語りかけていたのだ。
普段あまり自分の死について語ろうとしない父ではあるが、家族、親族への決別の思いも込めて演奏に没頭しているのかもしれない。
そして、周りのメンバーは、恐らくそんな思いを汲み取って、今までにはない独特の緊張感と決意を持って今回の演奏に臨んでいたのだ。
  それらを見て僕は父に、そしてその周りのバンドメンバーに、静かな誇りを感じた。

恐らく父は、残された人生を思い、誰もがそうであるように、そこからなんとか意味を見出そうとしたはずだ。
そして、一度はプロミュージシャンを目指し断念していた父は、やはり見出せたのは音楽だけだったのだろう。
残された日々を音楽に注ぐ決意を胸にし、自分の人生に意味付けしようとしているのだ。
 
  しかし父はあくまでアマチュアであり、ギターの演奏も上手い方ではあるものの、実力者はその上にごまんといるのだろう。
父が持つ音楽への誇りは、傍から見ればかなりくだらないように思えるかもしれない。
実際に私もそう思っていた。
しかし今日私はそんな父の演奏を見て、静かに燃える人間のプライドを見た。
一人の人間が生きる重みを思い知ったのだ。
  そんなバンドの迫真の演奏によって観客の熱量もどんどん高まっていき、それは普段は隅で座っている私たち兄弟までもが身を乗り出す程であった。
そしてスタジオのボルテージが最高潮に達したところで、バンドはアンコールを終えた。 
 拍手と喝采の中、はにかみを顔に浮かべて去っていく父を見て、私は初めて父の背中を羨んだ。