クマの寝床

かつて敗者だった人と、これから敗者となる人に捧ぐ

悲しみ

今日はバイトがあった。
割と上手く授業は進めれたと思う。
帰りに電車を乗り継いで家へ向かおうとした時に、自転車が潰れているのか、前輪が一周する度にガガガと音を立てる。
その音が耳に入るのが苦痛過ぎたため、僕は自転車を降り、三キロある家までの道を歩くことに決めた。歩いた方がタイヤの回転数が減り、少し苦痛が収まる気がしたからだ。
しかし、このノイズは消えるわけでもなく、嫌なリズムで僕の苛々を増幅させる。
家までの道の半分が過ぎたあたりで、我慢の限界になった。
家とは違う方向へ自転車を押し、当てもなく進んだ。
どこに続くか分からない道を方角も気にせず進んでいくと、神社があった。そこで少し休んで休憩して、無音の環境を満喫したいと思った。

神社は公園と隣接しており、自転車を停めて鳥居を潜ると、私はその境界付近に腰を下ろした。
静かではあるが水の流れる音が微かに聴こえる。いつもは水の音に癒しを求めて河川敷までわざわざ行く私であるが、今日はどういうわけかその水音が邪魔だ。
私は小さな公園の木々の間を二周したのち、満足できずに神社の本殿へ歩き、外に面している木目の廊下に腰をかけた。

何もかも嫌になった。何故私はこれ程辛いのか、何が原因か分からず、全てが原因であるような気もして、闇の中にそびえ立つ木々を見ていた。
恐らくエジソンの功績によって光る灯籠とそれに照らされる樹の肌を見て、その景色の時代を感じ、私は目を閉じた。

目を閉じたら平安時代に遡っているとどれ程嬉しいか、妄想していた。
水の流れる音と、原付のエンジン音が遠くに鳴っている。
僕はしばらく待った。せめてこの時代の音がなくなってから目を開けようと思ったのだ。
目を閉じれば遠くを通る車のタイヤの擦る音や、自転車の軋む音が後を絶たない。砂利道を歩く人の足音が近づいては消えていった。
そして水の音だけになった一瞬を見つけ目を開けると、まず目に入ったのは、揺れることなく平べったく光る灯籠だった。
私はそれを確認したのちに砂利道の不愉快な音を聞きながら入り口まで行き、自転車を神社の石壁まで押して行き、思い切りそれを投げ付けた。
二回のガシャンという音に満足すると、私は自転車をそのままに家へ帰った。