クマの寝床

かつて敗者だった人と、これから敗者となる人に捧ぐ

適当に生命考えたろ

何者も等しく人間だ。人それぞれ異なる考え方を持っていたとしても、結局は他の生物と同じであり、子孫繁栄を本能としてプログラムされた個体である。ただ人間は何か外因があったのか、他の生物と比較すると凄まじい進化を遂げ、多様な文化を生んだ。生きる意味は無限大にあるように思われる人間社会であるがしかし、それらを極める道に生きようとする者はきまって孤独であり、生の意味をさらに模索する。
やはり子孫繁栄のみが目的なのだろうか?それならあまりにこの人生は時間が余り過ぎはしないか?医療の発展が暇な時間をもたらしたのだろうか?理系に進んだ私は私なりに生命を解き明かしたいと考えている。
しかし進化論を軽く考えてみると、何故生命が地球上にこうも存在し続けようと躍起なのかはわかる。それはすなわち、存在し続けたいと願った種だけが残り、願わなかった種はそこで途切れたのだろう。なるほど、つまりは私たちが子孫を残そうとする理由は、そう願う遺伝子を受け継いだからである。それだけであるとするのなら、製作者の意図意図ではなく、むしろ製作者なんてやはりいないのかもしれない。
願いが自由に存在し、各々が異なるベクトルに進み、生き続けたいと望んだ種だけが何十億年、何百億年に渡る生命の営みを続けており、その先端にいまの私たちがいるのかもしれない。
私たちは生き続けたいと願った人々の子孫であるが、生き続けたいと望まない他のさまざまな願いを持った人々が存在する世界はどのようなものなのだろうか?今のように人々の頭にSEXがそれほどない場合の世界は、どうなりうるのだろうか?存在し続けることを目的にした場合、生物は環境へ適応するため変化ができなかったため、別の個体を用意して適応するための進化をする必要があった。とすると、存続を望まない場合は進化は必要ないため別の個体も必要ないため、交配もいらず、雄雌もいらない。なるほどではそこになんの面白みがあるのか?