クマの寝床

かつて敗者だった人と、これから敗者となる人に捧ぐ

幸せという虚像

僕は
「私」とは欲望である
という説を以前提唱したが、
案外的を得ていたと思う。

欲望を満たすためだけに
人間は肉体を駆使する。
肉体とは身体能力だけで無く
脳も同様である。

そして欲を満たすとまた次の欲が生まれ、
人生はただそれを繰り返しているだけだ。


もしこの仮説に不満があるなら、
その反例を提示していただきたい。

貴方がしたいこと、貴方が好きなこと、なんでも良い。


そして欲を満たしても満たしても次の欲が出てくるだけで、最後にはそれを果たせず人生が終わるなら、
人は生きる理由は無いのではないか?


幸せなんて存在しない






ファースト レーシング

 まず僕は運転免許を得てまだ年月が浅いため(初心者マークをつけている)、車を運転して気付かされることがたくさんあるのだが、先日友人と車で旅行した際に極めて面白い体験をしたのでこれをここに書きたい。

 

それは海岸線をドライブしていた時の話である。

観光地から宿へ戻ろうとおよそ100kmにわたる真夜中の道のりを運転し始めて少し経った時、後ろから大型トラックがこちらを猛烈に煽ってきていることに気付いた。

どれだけ僕がスピードを出しても「素人はさっさと道を譲れ」と言わんばかりに近距離を保ってついてくるのだ。

そのトラックはライトの色合いからかなりの自己主張の伺われ、同乗していた僕の友人は「怖いから道を譲って先に行かそうとよ」と不安がっていたが、僕は初心者ドライバーであるにも関わらず、自分の運転テクニックには割に自信を持っていたので、

「抜けるもんなら抜いてみろ」と譲らずトラックに真っ向から立ち向かってやることに決めた。

 

こうしてレースの火蓋は切られたのだった。

 

相手はプロのトラックの運転手であることもあり、職業として毎日運転することで培われた経験や技術、そしてなるべく早く荷物を届けたいの一心が生み出す爆発的なそよスピードは、僕の現状の力量とは段違いであることはレースが始まって少ししたところで思い知らされてしまったが、

それでも僕は初心者なりの成長の速さを武器にコーナリング技術を着々と身に付けていったことで、海岸線特有の連続するカーブの処理能力がみるみるうちに高まり、相手との距離を一時的にではあるが離したりと、それまでには考えられなかった状況が生まれてきたことで、自分の成長を実感することが出来た。

 その時の僕の感情を完全に文字に著すのは僕にはできないが、そこには快感や恐怖、さらには極度の興奮と、それと相対するはずの冷静さが共存していた。

車内を流れるサカナクションのアルバム「kikUUiki」が、僕のそれらの感情一つ一つをさらに深めていった。

 

 

「相手は僕を初心者だと思い煽ってビビらせて暇つぶしでもして、あわよくば抜かしてさっさと先に行こうと考えていただろうが、僕の急な成長にさぞ驚いてることだろうな」

などと相手の心を読みながら、極限のレースが続いていくと、はじまって20km程たったその時、はるか先に一台の軽自動車が見えた。

 

「ああ、この片側一車線が続く道では前の車抜かせないだろうし、このレースにもとうもう終わりが来たか」と一抹の別れの寂しさを胸に抱きながら、前の車の後をついていた。

前の車はやはりゆったりしたもので、それまでの激戦の影響から前との車間距離が自然に短くなってしまうのはもはや避けることが出来なかった。

ぬるい、ぬるいぞとドライブの悪魔に取り憑かれたかのごとくゆっくりとしたドライブにしびれを切らしていると次の瞬間、突然前の車のスピードが猛烈に早くなり始めた。

それまでのゆったりした運転とは打って変わって鋭いコーナリング、適切なブレーキタイミング、そして直線に出た時の確実な加速から、僕を一瞬で置き去りにしたのだ。

 

なんだ?どうして急に前の車(以後「軽」とする)は目覚めてしまったんだ?と疑問を感じるやいなやハッと思った。

つまり、今まで僕が「軽」と車間距離を詰めて詰めて走っていたことが、後ろのトラックに僕が煽られていたレース開始時の状況とまったく変わらなかったのだ。

 「軽」は僕がトラックに抱いた恐怖や憎しみを僕に抱いているのかもしれない、そう思うと少しばかり申しは訳なさを感じたが、嬉しいことにレースは「軽」が参戦して三台となって再開された。

 「軽」もまた凄まじく早かったが、彼らは僕の前を走っていることもあり、彼らについていくことでカーブの方向等を考える必要がなくなり、僕は運転に専念することが出来た。

 

また、「軽」の安定したブレーキタイミングとコーナリング経路を後ろから観察することで真似ることもできたので、まるで運転の師匠を得たような気分になった。


おかげで僕は、アウト・イン・アウトを習得した)

 

三台によって繰り広げられたレースは熾烈を極めた。

途中「軽」の前方には再びゆったり運転した車が現れたが、僕ら3台の存在に気付くや否や途中で回れ右をして棄権してしまった。 


山道から見える夜空にいつの間にか三日月が顔を出しており、車内ではついさっき流れていたはずのサカナクションの曲が再び流れていた。

そしてそのまま永遠にこう着状態が続くかと思われたが、「軽」が加わってから40km程経過したとき、「軽」がどんどん失速していることに気が付いた。

 先程までの威信はすっかり消え、僕らとの車間距離は縮まる頻度が増えた。

 「師匠、どうしたんだ?さっきまでのスピードはどこにいったんだ?」

と、どういうわけか僕は失望と怒りを覚えていたがどうやら「軽」は意図的に減速しているようである。

 

僕は途中からはこの「軽」を師のごとく敬い成長してきたが、師匠のほうも僕を一人前と認め、

 「お前に教えることはもう何もないから、俺を超えて早く先へ行け」

 と言っているかのような気がした。

なんとなく、「軽」の背中からそんな風に感じることが出来たのだ。

 その時、ちょうど良いタイミングでその山道で最長と思える直線道路に来て、対向車線のはるか先の曲がり道まで車は見えなかったので、

僕は師匠への感謝を胸に、対向車線に出て思いきり加速し、師匠を抜き去った。

 

師匠との修業を思い返すと、

少し涙が出た。

 

そして一人の男としてのドライブが始まるのか、と

真っ暗な道を照らし進んでいこうとすると、先程抜かした師匠が猛烈に僕を煽ってきていることに気付いた。

 

一瞬状況が読めなかったが、

「次会ったときはお互い敵同士だ」という三文映画にありがちな展開にどこか似ているなと思い、

敵と化した元の師匠の「軽」の追い上げに必死に抗っていた。

 

長時間に渡る極限状態に僕の体の節々はもはや悲鳴をあげていたが、

それでも僕はレースを続きていた。

同乗していた友人たちまでも緊張した面持ちでレースを観戦し、

車内に会話は無く、三周目に突入したサカナクションのアルバムだけが鳴っていた。


すると 突然、後部座席に座っていた友人が後ろを振り向き叫んだ。

 

 「トラックが軽を抜いた!!」

 

!?!?

 

師匠は敗れたのだった。

 

そして悲しみに暮れる暇もなく、バックミラーには異様な色のライトを纏うトラックが妖しく映った。

バックミラーに久しく映るそれを見て、僕はもはやトラックが何十年来の友のように思えた。

懐かしかったのだ。

言葉を交わしたことはなかったが彼とはこのレースが終わったらうまい酒を交わせる気がした。

 

100キロに渡るのレースはそれだけ僕らの間に関係を築いていた。

 

 

初めは到底かなうことのなかった相手

レースに勝ちたいという思いから生まれた僕の成長

師匠との出会い

師匠との厳しくも愛の感じた修行

別れ


そして、それらを経て再び交わることとなったライバル

 

レースはその日の最高潮に達し、

僕はこれまでの人生で得たすべてを使い必至に戦った。

 

全てを賭けたレースのさなから僕の心は純粋なひとつの感情に占められていた。

 

そう、僕はただ最高に楽しかった。

 

 

 

そして僕は自分の中で大きな何かが目覚める音を認めたところで、このレースの幕は降ろされた。

 

 

レースの結果については敢えてここには書かないが、

僕はこの日宿についてもなお興奮していた。

 

そしてその夜は朝まで眠りに就けなかったほどだ。

 

 

新たなものがたりが始まっていたのだ。

一人の人間が挫折し、師と出会い、成長していくものがたり。

その人間が生まれ変わり、一つの世界から別の世界へと移っていき、まったく知らなかったあたら新しい現実を知るものがたりである。

これは新しい作品のテーマになりうるだろうが、

   このものがたりはこれで終わった。

 

一夜で終わりを迎えた愛

夜に河川敷を散歩していると、自然の美しさを目の当たりにする。


心地よい風の肌触り、濡れた土の匂い、虫や流れる水の音、月に照らされる木々、空気の美味しさ。五感全てでその美しさは体感できる。



今日もいつものように並木道を歩いていると、まるで僕を呼び止めるかのように木陰からニャーと鳴き声が聞こえる。

僕は立ち止まりチュッチュッと口を鳴らすと、一匹の猫がそろりと顔を出した。

今まで僕に猫が寄って来たことなんてなく、逆にいつも猫に逃げられるといった感じであるが、今回は違って、僕の方にどんどんと寄ってこようとしている。

動物など飼ったことの無い僕は、その猫が自分に寄ってこようとするのを見ていて何をすれば良いのか、なぜ寄ってくるのか分からず、とりあえず距離を置いたが、それでも猫は近づいて来てニャーとまたひと声鳴いている。




なぜ寄ってくるのか分からない。
僕の隣にまで寄って来たので撫でてやろうかと思うと猫はびっくりしたようにサッと向こうへ走る。

暫くするとまた僕の方に寄って来て、なのにまっすぐ向かってくるわけでもなく僕の右側にきたり左側にきたりしながら、僕との距離を徐々に徐々に短くしていき、まるで誘惑するかのような声で鳴くのだが、撫でてやろうとするとやはり猫はびっくりしたように遠ざかってしまう。



こんなやりとりが3回ほど続き途方に暮れていた僕は何もせずじっと待っていることにした。


予想通り猫はジリジリと近づいて来て、僕の真横まで来たが、人懐っこく僕を見つめるわけでもなくそっぽを向いている。猫は綺麗な灰色だった。

しかしその綺麗なグレーの毛並みをもう一度撫でようとしてもまた逃げるだろうから、僕はじっと待っていることにした

待っていて気付いたが、猫は僕の指を舐めようとしているように思えた。

そして猫がどんどん顔を近づけてきたこの時ふと、猫が僕の指を噛まれるのではないかという恐怖が頭に過ぎり、不安でいっぱいになって逃げようかどうしようか必死で考えていると、たまたま自転車が通りかかったため道の真ん中にしゃがんでいた僕は止む無く猫から離れた。


猫も一旦離れた。


どこか少しほっとしている自分がいた。


そして自転車が通り過ぎて再び猫を見ると、遠くからだとやはりこちらを見ている。

ふと、この猫はお腹が空いて餌が欲しいんじゃないか?と思った。


確かに野良猫が何を食べているのか知らないが、自然界で食べていくことは楽ではないことは確かだろう。

そう考えると今までの猫の不思議な行動に合点が行き、気持ちが晴れやかになった。




そう得心するのが楽だったのかもしれない。





コンビニで猫が食べやすそうなお菓子を買い、もうあの猫はいないのではないかと不安になりながら急ぎ足で先ほどの場所に戻ると、猫はやはりそこにいた。

しかし、先程のようにその「猫」一匹だけでは無く、周りに小さい猫が沢山うろうろしていた。


僕の心はすっきりした。

「猫」はこの子供達の餌のために僕に懇願していて、そして僕はその願いを叶えてあげることができると思ったからだ。


そしてお菓子の欠片を投げた。


お菓子は少し「猫」の手前に落ちて、小さい猫がそれをサッと広い咥えまた向こうに行った。


お菓子はまだまだ沢山あるので僕は次々と投げていった。


子猫達はそのお菓子を懸命に食べ、投げていると他の猫まで集まって来ては欠片を咥えて消えて行ったが、肝心のその「猫」は一向に動こうとしない。



「猫」の前には何個もお菓子の欠片が転がっている。


そして、最後となったお菓子はその猫の真ん前に落ちたが、やはり食べてはくれなかった。


「猫」はもうこちらには来てはくれなかった。


鳴いてもくれなかった。



そしてやっと僕は自分の失態に気付き、その場から立ち去った。


結局僕は、愛情に対して物で応じるしか出来ない臆病者だったのだ。





この不毛な「夏休み」からの脱却

大学生なので夏季休暇はありがたいことに1か月以上残っているが、焦る。

例年通りに、今回の夏休みは何もできていないからだ。

まず僕がこの残りの休暇でしたいこと・すべきことをここにまとめてみたいと思う。

 

 1.夏休みでしたいこと

  • インド旅行
  • 京都一人旅
  • 海水浴
  • 読書会への参加
  • バンドでのライブ
  • 先祖についての研究

 

 2.夏休みですべきこと

  • 進路を考える
  • 英語、フランス語の勉強
  • 積読の消化
  • バイト

 

まあたくさんあるが、今のところ僕がやったことといえば「海水浴」と「フランス語」と「積読の消化」だけど、後は本当に内容のない日々を過ごしているようで萎える。

当初もっとも楽しみにしていた「インド旅行」はエボラの影響でかないそうにないな。(やはり命は最優先事項でしょう)

 

また思うに、夏休みの充実は上の「したいことリスト」をいくらこなすことが出来るかで決まるのであり、「するべきリスト」は自分が充実していたと言い聞かす分には幾らかの材料になるが、やはり心の奥底では寂しい空気は消えることはない。

(これはしかし僕が阿呆であるが故のことであり、実際はそうでもないのかな?)

 

まあとりあえず、明日から京都一人旅を刊行します!!(今決めました笑)

 

どうせ自由な時間、何するのも僕の自由なのです。

誰しもなかなか自由をうまく使うことはできませんが、

「自由とは好きなことを好きな時に行うことが出来る」

これ以上でもこれ以下でもないのではないでしょうか。

 

てことできょう一日はその予定を組むのに費やすとしましょう。

 

では!!

 

 

「進化論」を考えてたら人生の意味見つけちゃった話

 

  まず以下に書くことは深夜にTwitterで思ったことをせっせと書いてたら僕なりに結論に達してしまったので、それをここに貼り付けたものです。

ですので、また後に編集するつもりですが、文脈がグチャグチャになってしまっている可能性がございますので悪しからず、、

ただ、内容には僕的には満足しています!!

 

「進化論」を読んだことはないけれど、、

僕が例えば「頭が良くなりたい」とか、「足が速くなりたい」と望んで勉強や練習に励んでも、僕にはすぐに限界が来るだろうけど、僕の子孫は進化論的にそれを果たすだろう。それまでの子孫も同じことを願う場合に限るけど。

 

そう考えると、今の僕は先祖の人々の望んだものを受け継ぐ結果となって生まれたということになる。先祖の人々は頭脳を求める人もいれば、運動能力等様々なものを望んだから、現に中途半端な存在の「僕」が生まれた。

 

では人間はなにをしたいんだ?はっきり言って先祖代々より一つのことを望む なんて無理だろう。それぞれの時代のニーズとか、その一人一人の環境から。しかしそれでは自由ではあるが目的がわからない。わからない。

 

 「生物には時代ごとの環境に適応するために進化することが必要だと思うけど、進化するにはその個体だけでは限界があるから子孫に託す」というのはわかる。しかしこれでは「自分の血を受け継ぐ存在」がこの地球で残り続けることが目的であるということになる。そんなもんかな?

 

僕は子供もいないしよく分からないが、僕が死ぬというのは非常に悲しい。もし子供が出来、「自分の血を受け継ぐ存在」が現れても、自分が死ぬ怖さは無くならないと思うのだけれど。違うのかな?これに関しては今度子供を持つ人に聞いてみよう。

 

そういえば、中学の地理の先生が「自分の命より子供の方がずっと大切」とか言っていたな。彼はそうらしいけどみんなそうなのか?

 

そう考えると、僕の両親や祖父母はやはり僕に自分達の未来を託しているのかもしれない。僕はあまり親にそこまでの思いを感じていないけれど、親と子の関係性はそういうものなのかもしれない。

しかし例外はある。親が子を殺す事件も、逆のケースに比べると極めて稀ではあるが、無いわけでは無い。とすると、親の子への愛情と委託は全ての親に共通するわけでは無いということになる。これは謎だな。

 

あと気付いたが、「親が子供の進路に反対する心理」というのはここから来るのかもな。つまり、自分の望みを息子に託しているにも関わらず、息子は全く別の方向へ行ってしまい、自分の人生が無駄になるように思えてしまう。環境による影響によって血の命令から背くということだ。

そう考えると、自分の先祖はなにを考えて生きてきたのか、余すとこなく調べてみたいように思えてきた。いやしかし、影響を色濃く受けるのはせいぜいその三代前ぐらいまでだろうか?

あと、僕以外の家系3代分のサンプルが欲しい。

昔の偉人がやりやすそうかな?

 

僕の両親はバンドがきっかけで出会い、結婚した。祖父母は医者と野球選手だ。曽祖父母は分からないけど、軍人と新聞記者だったっけ?いや〜幅広すぎるけど面白い。僕にはどのような「願い」を受け継がれているんだ?

 

このように願いを受け継いでその結果願いに応じて脳や肉体が変化していくのだろう。

よし、この夏の旅に自分の先祖を調べて実際にその地を訪ねてみよう。これは非常に面白そうだ。

 

 自分の両親や祖父母だけでも、なにを遺したかったのか尋ねる必要があるな。それによって自分がなにを受け継いだのかも見えて来るのかもしれない。そして、それらを実行したり、はたまた別の重要なことを見つけて方向転換するのも必要では無いか?

 

ここで大発見

 現在の「僕」を先祖達の終点と考えるのではなく分岐点と考えることで、自分は後世の為に何を遺したいか?そのために何を願うか。これこそが僕が生きる意味であると考えると、非常にしっくりしてきた。

これは僕の中で大発見であり、今日は僕の中で革命が起きた日だ。よし、あとは子供を作らねば!!

結局こんな時間(AM5:00)になってしまったが、夜更かしと引き換えにこんな考えを引き出せるのなら、喜んでこれからも夜更かししたい!!

ロビン・ウィリアムスの死と鬱病

先日ロビン・ウィリアムス氏が亡くなりましたね。

 

僕は映画は好きですがそれほど詳しくはないため、

その名前は知っていましたが顔がまったく出なかったので、インターネットで調べたところ、彼の顔は非常に馴染み深く、僕が観た彼の出演作は

グッドウィル・ハンティング」「ミセス・ダウト」「レナードの朝」「アンドリューNDR114」と割と多いことに気が付いた。

 

そして、死因が重度のうつ病による自殺であることを知って非常に悲しくなった。

 

僕も以前、軽度ではあるが鬱病を患っており、

彼の笑顔の節々に、僕のつらかった日々を思わせる要素がいくつかある。

特にその目には深い悲しみを帯びており、笑顔になった時でもそれが完全には消えることはない。これは多くのうつ病の人間に共通するものだ。

 

本当に生きているのが辛かったんだろうなと思うが、

訃報を聞いたファンは、

「彼のやさしさに満ちた表情が好きだった」

と、仕方のないことだがあまりわかっていないだ。

 

僕は一刻も早く鬱病がこの世から無くなってほしいけど、

彼どうやら彼らのうつ病に気付いてやることが出来、

その不安を安らいであげることのできるのは、

同じ鬱病を経験したことのある人間なのかもしれない。

 

そう考えると、僕が鬱病を経験したということは、

苦しかったが貴重な経験であったように思う。

 

彼のような素晴らしい人間がこの世界に絶望し、この世を去るなんてこととを防ぐためにも、僕も微力を承知で努力したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「サカナクション」に関する私なりの考察をまとめてみた

サカナクション」について

 

 私は音楽を聴くことが非常に好きですが、それは親からの影響が大きく、その結果現代の流行りの音楽だけでなく、親が若かった頃に流行った曲やクラシック音楽を聴くなど、音楽の趣味の幅が広いことを自負しています。

そんな私が現在気になっているバンドは「サカナクション」なのですが、彼らの演奏は電子音を多用するスタイルで、それまでは私はあまり電子音の演奏があまり趣味に合わないと感じていたのですが、彼らの演奏においてはなぜか非常に心地よく感じ、このバンドは他のバンドには無い「何か」があると強く感じたため、今回の機会にその「何か」も含めて「サカナクション」について考察と思います。

 

まず、サカナクションの概要は以下のとおりです。

 

“2005年に活動を開始し、2007年にメジャーデビュー。日本の文学性を巧みに内包させる歌詞やフォーキーなメロディ、ロックバンドフォーマットからクラブミュージックアプローチまでこなす変容性。様々な表現方法を持つ5人組のバンドである。(中略)

音楽的な評価も受けながら「ミュージシャンの在り方」そのものを先進的にとらえて表現し続けるその姿勢は、新世代のイノベーターとして急速に支持を獲得している。”

                                                                                ― 公式HPより

 

この文脈から察するに只者ではない感が半端ではない気がしますが、やはり音楽性を理解するためには文章で伝わることは限りなく少ないと思うので、私が直感的に感じるサカナクションと他のバンドの違いを、以下に挙げました。

 

・「淡々とした歌い方」

・「バンドであるにも関わらず多用する電子音」

・「ほとんどの曲において一人称が『僕』」

 

まず一つ目に「淡々とした歌い方」と書きましたが、私が実際にこのサカナクションのボーカルである山口一郎の歌い方が実に淡々としている」という事実に気付いたのは、サカナクションを聴くようになってから暫くたってからで、サカナクションが好きであると言った僕に対しての友人の、

 

サカナクションはいいけど、ボーカルの人はなんか鬱っぽくない?」

 

という一言がきっかけです。

 

「鬱っぽい」という言い回しは失礼千万ではありますが、確かに無機質と思わせるような淡々としたその歌い方はどこか都会の人々の冷めた心を感じさせるもので、鬱とも表現されてもおかしくはない気もします。

 

しかしその冷めた歌が表現する悲しみと同時にどこか知性と品位を感じさせるのは、ボーカルの山口一郎の人間性が反映した結果であると考えられます。

 

    調べたところ、実際山口は非常に文学に造詣が深く俳句や詩を愛読しており(俳人では寺山修司種田山頭火を、詩人では吉本隆明石原吉郎を好む)、音楽を始めるきっかけは、文学であると公言していることから、その文学から得たインテリジェンスを音楽に存分に生かしていることがわかります。

 

私はさまざまな歌手を知っていますが、彼のような教養のある歌手は非常に稀有な存在であると思うし、教養に溢れる人間ほど悲しみを持ち、それ故にこころは冷めたものとなってしまうのは世の通例であるといえるのではないでしょうか。

(自分はそんな方々とはおよそ対極に位置する気がしてならないので、このままではいけないなと強く刺激される次第ですww)

 

とにかく、このインテリジェンスこそがサカナクションの音楽性の根幹を大きく担っているのは間違いないでしょう。

 

 次に、「バンドであるにも関わらず多用する電子音」に私は違和感があった。というのは、私の認識では電子音楽をするのにバンドは必要ではないと思っているからだ。疑問に思い調べてみると、山口が次のように語っているのを発見した。

 

「人間の作るグルーブは人間のコンピュータではなかなか再現できないため、弾く人間の個性やノリに左右され、それこそがバンドの良さである」

 

    この言葉から考えるに、人間の演奏による「アナログ」と電子音楽による「デジタル」の一見相対する存在であるかのように思える二つをサカナクションが見事に調和させることで、楽曲が他に例を見ないようなものに仕上がるのだろう。そしてそれによって、それまで二分されていた「アナログ派」と「デジタル派」の両方からの支持を受けることができ、現在のような人気を見事に獲得したのだろう。

なんとなくですが、故スティーブジョブズの言葉を思い出しましたね。

 

文系と理系の交差点に立てる人にこそ大きな価値がある

 

なるほど、人は理系・文系や印象派・象徴派、(男性や女性も?)など分類することをますが、どの業界、ジャンルにおいても常識から抜きん出る革命児はそれらを統合する存在なのですね!

(おこがましいながらもこの貧弱な胸を張らせていただくと、私が理系に進みながらも文系分野を苦労して学ぼうとするのには、好奇心以外にこのジョブズの言葉を意識しているからと言っても過言ではありません!!まあ、理系と文系を区別した言い回しを使っている時点で革命児までの道のりは私にはかなり遠そうですが 笑)

 

話はだいぶ逸れた気がしますが、「デジタル」と「アナログ」を分けて考えなかったことこそが、電子音楽にやや抵抗のある私が心地よくサカナクションの曲を聴くことが出来る所以でしょう。

 

三つ目は、「ほとんどの曲において一人称が『僕』」ことについてでありますが、これは山口が歌詞中において表現する物事(夢や悲しみ等)に対して彼の精神が少年さながらであることを表しており、これはつまりは大人になった今でも現状に甘んじることなく前へ進み続けたいという思いの表れであると考えられます。大学生である私も現状や将来に対して漠然とした不安を常々に抱いておりますが、だからこそ私のような若者にとって山口のような人生に対する心構えが共感と称賛と尊敬の的であり、サカナクションの人気が爆発している原因なのだろうと考えられます。

 

以上のことを考えると、サカナクションは少年の精神から文学のインテリジェンスなど、様々な魅力を兼ね備えており、その多様さは音楽を聴く人間の多様さをも生み出し、多くの世代から支持されるバンドであり続けるでしょう。そして、私も一人のファンとして、これからのサカナクションの更なる躍進を見守り続けていきたいと思います。

p.s.  サカナクションの良さを語り合う友を探しています 笑