クマの寝床

かつて敗者だった人と、これから敗者となる人に捧ぐ

京都大学の一件から

  国立大学で国から恩恵を受けているんだから、京大が公安に逆らう権利はないという意見がある。
しかし、この意見がまかり通ってしまえば、国立大学は国家に従属する機関に成り下がってしまうことになる。
   時代を支配する観念から一線を画し、勉学の自由を学生に提供させることで、オリジナリティを学生の中で育ませることこそ、大学の目指す方向では無いのか?

事実、京都大学はこれまで数々の研究において世界を牽引してきた学術機関であり、
日本に対しても十二分に貢献して居るのだから、これまで続いてきたこの伝統を壊すべきでは絶対に無い筈である。

しかし、時代はいま大学にとって分岐点を迎えており、様々な側面において大学は今後数年で大きく変わるだろう。
僕としては、これから予想される変化に賛成しているものも幾つかあるけれど、
大学が学び舎としての「自由」を失わないことを、強く願っている。




くそったれ



自分は、無力だった。

世界はこんなにも糞みたいで、誠実な人間は不意を食らうばかりなのに、
僕は何も出来ないのだ。

欲望の権化が支配した社会の規則から、
それでも僕はまだ抜け出せずにいる。

出来ることといえば、この怒りを蔓延させることぐらいだろうか?

それならおれは、怒りをどんどん透明にし、
どんどん大きくしてやろう。

そしておれは、
この怒り玉を溜めてやろう、
しかし静かに、決して昇華させることなく。


それまでは決して
笑顔を絶やさず



恐るべき人間の本性


今日は朝から非常に楽しく呑気に過ごしており、

母と談笑を楽しんでいたところ、

ある知らせによって私もとよりわが家は

一転して暗い悲しみに包まれたのだ。

 

その時生じた少し奇妙に思えた体験をここに書きたい。

 

 まず、今日のこの出来事を記すに当たって、

少し月日を遡ったところから説明せねばなるまい。

 

まず初めに、 

私の父はおよそ一年前に癌を患った。

癌は二か所あったため二回にわたる大手術が必要だったのだが、手術自体は今年の5月頃にすべて終了した。

 

その二回の手術の間と後には、癌が転移しないように抗がん剤治療を受けていたのだが、

これが実に大変そうで、父は傍目から見てもみるみる弱っていくのが分かった。


しかし、それでもなんとか父は抗がん剤に耐え、投薬が終了したのはおよそ三か月ほど前になるだろうか。

 

 その後、定期的に病院へ検査しに行くだけで良いようになった父は、少ししてからまた仕事を再開した。

 

 このまま徐々に元気を取り戻してくれるかと思われたが、やはり以前のような快活さは無く、日々の生活をこなすのがなかなか大変そうであった。

最初は療養明けなので仕方がないかと皆で言っていたのだが、

日が経てばむしろ逆に父の体調は悪化していってるように思えた。

 

しかし、直前にした検査の結果は非常に良好なものであったため、時間が経てば体調も安定するだろうと誰もが信じていた。

 

まあ、本人もそう思いたかったのだろうし、僕ら家族も癌の再発をあえて仄めかしたりは勿論出来なかったのだ。

 

その後しばらく経つと、父は体の節々の痛みを訴えだし、

訴えの頻度はどんどん増していき、

夜は鎮痛剤入りのシップを張らないと眠れないまでになったので、

見兼ねた僕は気軽を装い「病院に行ってみたら?」と提案した。

 

そして父は検査へ行き、本日その結果が分かったわけだが、

非常に鋭い頭を備えたごくごく一部の読者ならもう察しているのかもしれない。

 

父に癌の再発が見つかったのだ。

 

今度は四か所だった。

 

二か所であった以前でさえあれほど苦しそうでそれでも根治できなかったのに、

四か所となると、はっきり言ってもう父の癌は治りそうにない気がするのだが、

そう考えた時に僕にはさまざまな思いが頭を巡った。

 

子供たちを食わすために働いてきた父

 

彼は僕らを子供に持ってしまったばかりに、自分のためではなく家庭のために生きることを強いられ、それでも文句を少ししか言わず(ちょっとはあったが)遅くまで働き、毎日満員電車に揺られ会社を往復し、夜更かしにもかかわらず朝は五時半に起きて寝ている僕らを起こし、その後に家を出ていった。

 

なんて堅実な父親であろう。

僕ら兄弟が賜った生によって、昔はミュージシャンを目指していた父は勤勉にならざるを得なかったのだ。

 

彼の人生をこのようにした僕らには、それに値する生きる価値はあるのか?

僕らはやはり彼らにたくさんのことを与えるべきではないか?

 

いわゆる恩返しというやつであるが。

 

まあ恩返しのことは僕がこれから考えていくべき内容であるので、今あえて書くつもりは無い。

とりあえず、以上の一連の出来事により一家は暗い空気に包まれるかにみられたが、

こういう状況を体験した人ならご存知かもしれない。

例によってわが家でも、場を取り巻く空気の暗さは直ちに無くなり、ぎこちない明るさによって満たされていた。


このぎこちない空気は、当人の虚勢、及びその他の人間による気遣いにより生じるのだが、

父の張る虚勢は常人のそれを遥かに超えており、

癌転移を宣告され家に帰って来た時、彼は玄関のドアを開けながら口笛を吹いていたほどだ。

(しかしこの口笛を聞いて僕は父の診断の結果が良いものでは無かったことを察した。

やはり僕には、父の血が通っていたようだ。)

 

話は戻るが、このぎこちない明るさが暫く続いたとき、

インターフォンが鳴った。

 

それは弟によるもので、鍵を忘れたため玄関を開けてほしいとのことだったが、

僕は階段を下りながら弟に今回の悪報をどのように知らせるか、まだ小さい弟に言うべきかどうか、思案しているときにふとギクリとした。

 

僕は今回の出来事を心の底から悲しみ、父には大層同情していたが、

それを上回って、僕はこの話を弟に言いたくて言いたくてうずうずしていたのだ。

 

もちろんこの興奮は他でもく、弟を脅かしたくて、え!?っと言わせたくて堪らないというところから生じた興奮であった。

 

なんて俺は馬鹿なんだ、なんて低俗なんだ?

自分の感情が理解出来ず、ただ自分を恥じた。

 

そして自分で自分を恥じながらも、しかし同じような体験を以前にもしたことがあった。

 

これはある小説の一場面においてこの心情を的確に表現されていたのだ。

以下である。

 間借り人たちはひそかに奇妙な満足感を味わいながら、次々と戸口のほうへ下がって行った。それは近親者の突然の不幸に際して、最も近しい人々でさえ必ず覚える感情で、どんなに身につまされて心の底から同情したところで、やっぱり誰一人免れることのできないものなのである

罪と罰

 

今これを書くためにこの文章のある箇所を読み直しましたが、

全く今の僕の状況とかわらないじゃあないですか!!

 

ということはこの愚劣極まりなく思われた感情は、僕だけではなく人間全般に当てはまるものなのですね。

 

いやしかし、人間とはなんて不可解なのだ?

 

このような悲しむべきであろう瞬間にさえ、

こんな馬鹿みたいな感情がつきまとってくるのか。

 

僕はできれば純粋に父を嘆いていたかったのに。

 

おそらくこうした感情は、今後のどんな極限の状況においても付きまとってくるのだろう。

何かを泣きながら、笑いながら、怒りながら、その感情それ自体に溺れることは許されず、

愚にもつかぬ事に思いを馳せているのだろう。

 

なんて生き物だよ人間て奴ぁ

 

しかしこれこそ人間のリアルであり、創作の世界からは覗くことのできない一面なのだ。(ドストエフスキーはその点において極めて優れている)

 

やはり、読書では世界を知ることなど出来ないのだ。

本の世界を神格化し祭り上げていたこれまでのぼくであったが、今回の件でしかと思い知らされてしまいました。


よし!


よし!!

ということで、これより僕は本を捨て、町に出るとしよう!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気狂いピエロ を見て、自分の屑を再確認

 今日僕は映画の「気狂いピエロ」を観た。

最近映画の感想ブログが多い気もするが、

彼女もおらず、友人たちともそれほど頻繁には会わないので、

一人の時間が必然的に長くなってしまうのだ。

そして一人で過ごす時間の過ごすとなると、

現在は主にフランス語の勉強か、読書か、映画鑑賞か、ネットサーフィン、をしている。

確かに孤独ではあるが、まあまあ充実した日々を送れているようには思っている。

(このほかに面白い休日の過ごし方を知っている人がいればぜひ教えて頂きたく候)

 

 とまあどうでもいい話はおいておいて、

気狂いピエロの感想を書きたい。

 

まずこの映画はネット上のレビューを見て興味を持ったのだが、

そのレビューでまず目についたのが、「オシャレ」というコメントの多さであったが、

よくよくレビューを見ていると、「オシャレ」と同じぐらいに「意味が分からない」、「奇妙だ」という言葉が目についた。

 

要するに「オシャレで意味が分からない映画」ということになるんだけど、僕からするそれはフランス映画の象徴であるかのように思い、特別珍しい気もしなかったのだが、

なんとなく僕の心がオシャレさを求めており(笑)、

フランス語を勉強している僕には「フランス」を知る良い機会だと思い見ることを決めた次第である。


監督がフランスの巨匠だったようだし。

 

 というわけで今日それを観て、その感想を書きたいのだが、

僕が映画の感想を書くということは、すなわち僕にとって新たな発見があったということなのだ。

読者は存分に期待して欲しい。

まず、今回はもうストーリーがそれ程重要ではないように思うので、ネタバレを気にせずここに書いてしまおうと思うのだが、

映画を見始めて直後に衝撃を受けるのが、

この映画の主人公である女と男が、とにかく倫理観に欠如していることだ。

物は盗み、人は殴り、家族は捨て、とにかくハチャメチャなのだ。

しかし観ているうちに僕はハッとし、それらの行為が最近の自分の考えの具象化であることに気が付いた。

 

僕は最近ただただ現実が大変つまらなく、仕事で就くとその現実がさらに悪化してしまうのは疑いようもなく、何とかして働きたくないと思っている、まさに屑の代表なのであるが、

そんな人間が幸せと向き合うとなると、この世のすべての制約が邪魔になり、

それらから逃れた真の自由を求めてしまうのだ。

 

 幸い(?)、僕は宗教を信仰してはいないのだが、

宗教も、法律も、倫理も、道徳も、常識も、僕らのような屑が増えないためのものであるようにしか思えないのだ。

(勿論、屑が増えると世界は崩壊するだろうしね!)

 

また、以上の制約のお陰で世界は今のところは残っているが、

みんな、どのような思いでこれらに従い生きているのだろう?

 

僕は思う。

その心に中身はないであろうと。

 

宗教も法律も、、etcは、それらを破った時の不利益により人間は守っているだけ

に過ぎないのだ。

 

宗教・・・神に怒られる

法律・・・罰せられる

倫理・・・周りの人間に嫌われる

道徳・・・  同上

常識・・・  同上

 

まあこんなとこだろうか。

これらを恐れて人々はそれらの枠内を行動し、枠から外れた人間を批判、攻撃する。

しかし、自由を望んでいる僕はこう考えたい。

「それらの罰を承知の上なら制約からはのがれられてもよいのではないのか?」と。

 

「そして真の自由を手に入れたい。」

 

屑故に、僕はそう思ってしまう。

また、一人の屑として言い訳させてもらうが、

真の道徳や倫理や法律からは人間は大きく逸脱してしまっているのだ。


娯楽や利便性などの為だけに 

動物や植物を大量虐殺しているではないか。



この世の全ての制約は、人間が生き残る為に人間が作ったものなのだ。

そして科学技術を使い、過去莫大な恩恵をくれた(もちろん今も)自然をも、支配しようとしている。


そんなものをなぜ護らにゃならんのだ?


どうせ数々の異種の犠牲の上に成り立つ虚構で有るのなら、

僕はそんなものに縛られる必要は全くないと思のだ!!


そして大脱線をした話は再び元のレールへ奇跡的帰還を成し遂げこの映画についてであるが、

気狂いピエロ」の主演の二人はその考えを体現しているように思う。

特にこの映画においては女のほうにこれが言えると思う。

 

 

そして、神に見放されても、周囲にどれだけ白い目で見られようと、警察に追いかけ回されようと愛する人間さえいればそんなものはどうでも良くなるのだ。

 

まあしかし、人間の感情というのは実に不確かであり、

故に二人の掴んだ「真の自由」は終わりを迎えることとなった。

 

感想は以上でしょうか。

 

真面目にこのブログを読んでくれたなら、映画よりも僕の屑さに目が行ってしまうのではないかと思い、映画評論家を目指す人間として失格であるが(嘘)、

とりあえずまあこのくらいにして失敬させていただきましょう。

 では

 

 

Dead Poets Society という名映画とその力

  記念する僕の誕生日、SNSを通して以外には誰も祝ってくれる人もおらず、
僕は昼間から家でひとり映画を観ていた。

「可哀想!」と多くの人は僕に同情してくれるのかもしれないが、生憎僕にはそんな安っぽい感情に取り合っている暇はない。

なぜなら実に素晴らしい映画を鑑賞し、言い知れぬ感動に心を奪われていたからだ。
僕の誕生日は非常に充実したものであったと断言したい。

そして、その誕生日を飾る記念すべき映画こそ、
「Dead Poets Society(今を生きる)」だ。

  まず僕はこの映画を事前に知っていたわけではないが、この映画が故ロビン・ウィリアムス主演の作品コーナーにあって、その中で一番僕が求めていそうな作品だったので借りた訳だ。

僕はロビンウィリアムスが好きなのだけど、それは共感が先行するだろうか。

彼の表情は、まさに鬱病が深刻であることを表していて、以前の僕と重なりとても興味深いのだ。



  何はともあれ、早速映画鑑賞が始まる。

この映画を観て心を動かされる人間はまずいないだろうと思うような内容であったが、僕の心を真に刺激したのは鑑賞中ではなかった。

それは、映画を見終え夕飯をすませ、日課となりつつある夜道の散歩をしている時であった。

僕は映画の内容を頭で追っていたため、その散歩は少し涙を滲ませながらのものとなってしまったのだが、
(詳しい内容については後に観る人もいるだろうからここでは記述しない)
やはり社会の不条理を突きつけられるのだ。

つまり現代の社会構造において、
個人が求められるのは労働力として、つまりは個人から精神を排除した、肉体としてなのだ。

そしてこれは教育現場においても同様であり、教育の最先端であるとされる有名進学校においても社会に応じた人材育成のため、個人の精神を蔑ろにされる。
(そのくせに夢を持てなどと仰せになる笑)

教育とは果たして、社会適応の為なのであろうか?

そして偉大な精神を持ちそれを尊重したいと願う純粋な人間こそが、この社会に適応出来ずに苦しむ。

この映画ではそのようなことを如実に描かれた傑作であるように僕は思う。

この映画を観たことで僕も少し自分を知ることが出来た。


というのは、自分がなぜこれ程就職に負のイメージを持っているのか、自分にも理解できなかったのだが、やっとわかったのだ。

それはつまり、多くの仕事において労働者は精神を排除し、肉体のみを提供することを必要とされているからだ。
(ここで僕の唱える「肉体」には脳も含んでいる)

そして僕は自分の精神とは、インテリジェンスとは無関係の「欲望」であると考えている。インテリジェンスとは肉体である脳の働きの結果生まれたものであり、よって精神には関与しないと僕は考えている。

つまり、精神を排除しない職業とは、自分の欲望を叶えることができる仕事であるということだ。

である為、多くの仕事において精神の排除を要求されるとは言っても、その仕事を終えた達成感等の喜びを感じることで、人々は精神を充実させているのだ。


しかし僕は、、それだけでは、足りない。

これまでの僕の最難関はここであったのだ。。
仕事の後について来る付加的な精神的満足ではなく、その仕事そのものに対してま僕は欲しているのだ。精神的満足を。

これを得るためにこれからする努力は並大抵のことでは無いかもしれない。

しかし、以前のように道に迷うことは無い。
僕はただ、欲望に従えば良いのだ。
それこそが精神を充実させることが出来、その充実はひいては人生の喜びに繋がるであろう。

ここまでの考えを鑑賞者に与える
「今を生きる」に感謝を示すとともに、
このブログを終了したいと思う。
見てくれて、ありがとう。

マリオカートが教えてくれた「人生の在り方」

ゲームしたい欲求が高まりつつある昨今ですが(私事ですみません)

ゲームをしている時に、
「このステージをクリアしたい!」
と思うのはプレイする人が皆持つ感情だと思います。

僕はよくマリオカートしますが、

負ければ負ける程
「なんとかして1位になりたい!!」
と思って、
ゲームが楽しくなり、

逆にずっと勝ち続けていると、
ゲームは途端に面白く無くなり
「もう飽きたから辞めよう」
と、案外早めに切り上げてしまいます。


これはよく考えてみると少しばかり不思議ではござらぬか。

勝ちたいと思って臨むはずのゲームで、
負けた時は楽しいのに、勝ってしまえば飽きてやめてしまうのだ。


なんだこの驚くべき矛盾は、、





ハッ!!もしかして!!!
(そして僕は以前同様真理を掴んでしまった)


僕は気づきました。
これは人生と同じでは無いか!と。

つまり、
ゲームをプレイする際の「ゲームをクリアしたい欲」
人生における「欲望」
は、
同じようなもんだということです。


であるから、
人生を面白くするためには、
欲望を持ち、それが叶いそうで叶わないのがもっとも面白いのです。

そう考えると人生というのはテレビゲームに比べるとずっと面白いもんです。

ゲーム中に湧く
「ゲームをクリアしたいという欲望」
は唯一無二のものですが、

人生における欲望はたくさんあるからです。
具体的には、金銭欲、地位欲、性欲、自己顕示欲、愛欲、知識欲、等がありますが、

これらの欲望に素直になることで、
人生を楽しくできるのでは無いかと思います。

僕はこれまで欲望に従うことに対して、
「人間である」というよくわからないプライドゆえに、
肯定出来ずにいましたが、
だからと言って
「人生が面白くない、辛い」
と自殺するのはもっとも本末転倒である気がするので、
これからこの自分で生み出した理論を信仰することで、

僕自身も死ぬこと無く生きていけそうな気がする。



「それでも僕は、部活を辞めたい」

友人が部活動を辞めたいらしい。

その部活動は体育会系で伝統によるルールが厳しく、
話を聞く限りでは部員を人間としてではなく組織の歯車のように扱い、
仮に、辞めようかなと他の部員に相談した際には、
その噂は噂は全員に広まり、
家に先輩方多数が夜分突然訪問してきて半ば脅しながら部活に残ることを説得してきたりなど、聴いているだけで嫌になることもたくさんある。

僕にはその友人が非常に大切な存在であるのだが、どうやら部活を辞めるための最終段階として、部員全員の前で自分が辞める皆が納得できるような理由を言わなければならないらしい。

僕はその友人のためを思って頼まれた訳では無いが、彼を思ってその文句を書いてやった。

先輩方が反論してこないような内容にしつつ、それでも完全に辞めることの出来るような文章の作成はなかなか骨が折れたため、途中は怒りを爆発させてしまったため、ご了承頂きたい。

以下

「○○です。

突然ではありますが、僕は今日この部活動を辞めます。

これは部活が嫌いになったからという訳では無く、大学在籍中にもっと他の多くのことを知りたいと思ったからです。

ある先輩にそう言うと、「部活をしていると、人間的に成長出来、就職にも有利になる」と言って、残るように説得されました。

これはその先輩以外にも多くの人が思い、信じていることであると思います。

確かに部活動を通じて、僕は礼儀の基礎、後輩の指導、組織運営の難しさ等、様々なことを学べました。

これらはきっと就職時やその後社会人となった時に役に立つだろうと思います。

しかし、これらは僕の意思とは無関係に、強制されたものでした。

そこには僕の心など入る余地もなく、理不尽な、納得のいかないようなキツイ練習を強いられたことも多々ありました。

このように部活動とは、将来社会の駒として生きる人材の育成には非常に適しているかもしれませんが、一人の自由な人間の精神的成長を考えると、決して良いとは僕には到底思えません。

僕はこれからの人生を有意義に生きたいです。
そして、有意義に生きるためにまず必要なことは、「本当に自分の求めることは何なのか」を考えることだと思います。

未熟で恥ずかしい限りですが、僕にはそれがまだ見つかっていないのです。

そして、この部活でも無いと思います。


なので、それについて少し考えようとしたときに、
今所属している部活動が何処か本来の世界よりも狭く、特異であることに気づきました。

自分が多様であるはずの世界に目を向けず、成り行きに任せて人生を過ごしてしまうことになりそうで非常に怖くなったのです。

なので、部活は決して嫌いでは無いのですが、以上の理由よりやめさせて頂きます。

今までお世話になった先輩方、
本当にありがとうございました。

そしてこの部活動に残る人たちへ一言言わせて頂きます。

自分の将来を考えることも無く成り行きでこの厳しい部活に入った人達へ、

もう一度自分の人生を考え、その後にこの部活に留まる意味が本当にあるのかを考えろ!!

その後おまえが去るも残るも、おまえの自由だが、
この決断による影響は、大学生活だけに留まるものではない!!

自分の人生を何に使うのか、考えるのに就職してからでは残念ながら既に周りより一歩、いや二歩遅いのだ。

大学での学生生活は本来最も自由でかつ将来を考えるのに適した時間なのだ。
その時間をただボール遊びだけに専念することを、君の心は望んでいるのか?

そんなこと望んでいない!!と思うお前ら、おれに続け!!

そして俺たちを虐げる悪魔たちのその面に唾を吐き、こう叫ぶんだ

『俺の人生を舐めるな!!』と。

これを乗り越えた君らは、
かの革命の志士たちまでもが心底思い焦がれ、しかし手に入れることの出来なかった「自由」を手にすることが出来るのだ!!

君の未来はきっと明るいさ!


ー僕からは以上です。」

……


皆はどう思うだろうか?
それについては皆のコメントを期待するとするが、

僕はこの演説に非常に大きな可能性を感じている。